戦後はこの『太平洋戦争史』にもとづいて、自国の歴史を否定する教育が施され、いわゆる「自虐史観」が国民の隅々まで染み渡ることとなります。
この宣伝文書は、まず「太平洋戦争」という呼称を日本語の言語空間に導入したという意味で、歴史的な役割を果たしたといえましょう。新しい呼称の導入は、当然それまでの「大東亜戦争」という呼称は、次の指令によって禁止を命じられました。
≪公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ聯想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザル者ハ之ヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル≫
1945年(昭和20年)12月15日にGHQが発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」、いわゆる「神道指令」です。
つまり日本人が戦った戦争、「大東亜戦争」はその存在と意義を抹殺され、その跡に米国人の戦った戦争、「太平洋戦争」がはめ込まれました。これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまりません。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託されていた一切の意味と価値観もまた、そのまま入れ替えられることになりました。すなわち、用語の入れ替えは必然的に歴史的記述のパラダイムの組み替えを伴うことになるのです。
ちなみに、これにより1945年(昭和20年)12月31日、CIE(民間情報教育局)は「修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程」の即時中止を指令しました。
これを受けて1946年(昭和21年)1月11日、文部次官は、地方長官と各学校長宛てに「依命通牒」を発しました。
その結果『太平洋戦争史』と題されたCIE制作の宣伝文は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのです。
それは、とりもなおさず、
≪「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」(戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画)の浸透であった。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が込められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった。「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。≫
≪戦後、日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅をしめつつあるためである。
正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことをCCD(民間検閲支隊)の検閲とCIEによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。≫
さて、この「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の第一段階は、単に『太平洋戦争史』の新聞連載と教材採用にとどまっていたのではありません。
CIEはこれと並行して、精神的なラジオキャンペーンを展開していました。『真相はこうだ』です。
≪『真相はこうだ』―― これは『太平洋戦争史』を劇化したものであるが、1945年(昭和20年)12月9日から1946年2月10日まで、10週間にわたって週1回放送された。
それと同時に、CIEは、日本の放送ネットワークに『真相はこうだ』の質問箱の番組を設けた。これは『真相はこうだ』の聴取者に、質問の機会をあたえて番組に参加させようとする意図によるものである。『真相はこうだ』の放送が終了した時点で、この質問箱は『真相箱』となった。この番組は41週つづき、1946年(昭和21年)12月4日に終了した。
つい半年前まで「東部軍管区情報」を伝え、玉音放送を伝えていた同じラジオの受信機から、『真相はこうだ』のどぎつい阿鼻叫喚が聞こえてきた。≫
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の第二段階は、1946年(昭和21年)初頭から開始されました。この第二段階においては、民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用されました。しかしながら、時としてきわめて厳しく、繰り返し一貫して戦争の原因、戦争を起こした日本人の罪、および戦争犯罪への言及がおこなわれました。
この年(昭和21年)に生まれた私は、どっぷりとこの戦後の教育に浸かって育ってきたと言えましょう。
つづく